「差別的な優越意識」という対立構造の顕示
そして《一億総萌え》なムーブメントに対するむず痒さ
※メディア側が意図する「おたく文化」が実像を描こうとしていない事に苛立ちを憶えつつも、 その内容ゆえに描く事に限界がある点も承知せざるを得ない。 そういった二律背反な心境に加え、 以前から余りにそこ彼処で「萌え」という言葉が飛び交う《一億総萌え》な状況に居心地の微妙さを感じてました。
『「萌え」利用した優越感』 森川嘉一郎さん
(《新・欲望論》 朝日新聞06年1月12日朝刊)
【関連】
『嫌オタク流』 太田出版 1月24日発売
中原昌也さん、高橋ヨシキさん、海猫沢めろんさん、更科修一郎さん・著
(RE V の日記:RE Vさん1/13付より)
先日更科修一郎さんの指摘する“「優しい」楽園の排他性”に触れる際、 その居心地の悪さについても勢いで書き始めてたので、(メインの内容から外れたため)カットしてます。
そうした最中に関連する話題が出て来たという事で、先に森川嘉一郎さんの記事について書いてみました。
(『嫌オタク流』についてはまだまとまらず…。個人的に違和感を解剖する手引きになると期待)
“元来おたくの文化だったものが市民権を得始めると、その被差別的な出自が邪魔になり、 やがて切り離しが起こる”朝日新聞という新聞紙の文化欄だからその意見の波及範囲自体は限界を感じるものの、 昨日掲載の森川さんの寄稿テキストは具体的な「負」の姿こそ踏み込んでいないが、 「おたく」と「そうでないか(非おたく層)」という対立構図が、 おたくの消費行動に対して非おたく層が差別的な優越意識を持つ構造となっている事を明示し、 それをメディアが意図的に操作している事を指摘した点で大変意味深い。
“ジャズを説明するのに、黒人文化との関係を伏せろと言うようなものだ”
(『「萌え」利用した優越感』より)
多分、誰もがそう思っていたはずだけど、 「おたく」も「そうでないか(非おたく層)」も「オタ」という珍獣を見物するまでの思考に留まっていた。
そして「おたく」側のメディアやそう言った媒体がとりあげる「差別的な優越意識という構造」についての指摘も、 そのメディアの影響範囲にまでしか声は届かず、 「おたく」側が自己の被差別性の認識を継ぎ足すまででしかなかった(それ自体にも認識させる点では意味はあったが)。
(1/14 18:20)
と、ここまでその《「萌え」利用した優越感》について「萌え」を擁護する側として記してましたが、 次はその「萌え」についてのウチの抱く違和感に触れようと思います。
いや「萌え」という言葉そのものには罪は無いです。 ウチも「悶絶」と言い換えてるけど本質的には同じ感情(大なり小なり「性的」な意味合いを含み得る)。
ただ、《一億総萌え》な状況にだね。
◎(『封印作品の謎』第5章=萌える行政(“O157予防ゲーム”)について 04年10月1日)※過去のテキストと矛盾してないか心配しましたが、 大学前後の出来事が引っ掛かっていた分、2004年時点でも既に違和感を憶えていたみたいです。
“個人的にはしかし、 九品仏大志の野望(犬威赤彦さんと吉田創さんにより2倍増強)であった “オタクによる世界征服”はあくまでも冗談というか非現実だとばかり思っていたからか、 こうした(2004年の中でオタク文化・産業への)権威付けを狙う(試みる) 流れに戸惑いと違和感を感じます”
◎(年寄りの冷や水よりもアレな思い出話 05年8月26日)
(“キャラクターに異様に嵌る人達がキモチ悪く見えた” )この侮蔑的な見方はヴェルファーレ(での「ときメモ」イベントの映像) や大学に入る前から自分の内面にあったんですよね。(中略)
そして雑誌とか色々なメディア展開で『ときメモ』がある種の特権的な位置についていた (と感じた)部分が『ときメモ』=メインカルチャーと見えて。
更に『同級生』等の自分が衝撃を受けたエロゲが日陰者扱いだったという劣等感が追い討ちをかけたから、 そういう差別感を自分で作って独り善がりな愉悦感を持とうとしたんじゃないかな(苦笑)”
“『エヴァンゲリオン』のトレカを見て「それただの紙にイラストが印刷されてるだけでしょ」 と侮蔑していた分際でですよ(爆死)。これを自分が(『WHITE ALBUM』のトレカを)集め始めるとなると、 もはやイコン信仰、偶像崇拝を始めたに等しいです。 ファンがキモいなんてよく言えましたねこいつは”
◎(06年1月10日付で書いててカットした部分 書きかけそのまま)
“個人的には……後ろめたさの強かった趣向がある程度世間に「露出」した事で、 それなりに認知され受け入れられる部分を感じたと同時に、 後ろめたさの本当に後ろめたい部分(エログロ的な要素)や、 新年のNHK『英語でしゃべらナイト』で馬鹿というか痛いというか情けないというか… 「萌え~」なんて大声で連呼して口走ってる姿とか見てると、 「露出」する事について「恥ずかしい」といった部分を抱いてるわけです。
《一億総萌え》を構築しようとするムーブメントにもちょっと抵抗感ある。
脱力したような表面的なイメージを先に抱かせる以上、どうあがいても 《「萌え」利用した優越感》という視線から逃れる術は無い”
結局は「本当に後ろめたい部分」があり、自分たちがそれを最も享受している以上、 それに狭いコミュニティの枠に篭ろうとしても決して外部のコミュニティの視線から逃れられないのだから、 外部のコミュニティにいる非おたく層の差別的な優越意識から逃れ得ない。
親がウチの部屋を見てて抱く違和感というか不安感はむしろ当然だと思う (今の仕事について“コンテンツ産業に従事している”と苦し紛れの言い訳をしてます……)
「おたく文化」が好きだ。
最も活動的で常に新しいものが生み出されるフィールドであり、 そういったエネルギーに満ちてる。 目新しく感じる事が出来るエンターテイメントの場である。
しかし、世間には決して理解されない。
理解もして欲しいが、触れて欲しくない(理解されない)部分もある。
この二律背反を少なからず感じているなら、 最近の《一億総萌え》なムーブメントにむず痒さや違和感を憶えるんじゃないかな。
そしてその引っ掛かりが「本当に後ろめたい部分」であり触れて欲しくない(理解されない)部分、 例えば性的な意味合いのような「負」のイメージと密接すると気付いているかと思う。
それでも自分の素直なセンスに基づき、 新たな探求をしながら自分の中の「おたく文化」を抱きつづける。
ただし、外部のコミュニティの注視が存在認識(黙認)レベルから排除の方向に流れない様、 世間の空気と犯してはならない常識に自分らも注視しなければならない。
《一億総萌え》ムーブメントは「本当に後ろめたい部分」を(潜在的にも)負う以上、 決して安泰した永遠の楽園ではないのだから。
(1/14 23:15)
“今日(1994年かその前の頃)世界には、 電算機的手段によって実現された文学に携わる多くの作家や、大学が存在している。 瓶から出た霊のように、物語は電算機の自由な空間へ開放され、そこで分かれていく。 あるいは「ヴァーチャルリアリティ」の形態で、物語をテレヴィジョンに移行させることが試みられている。 小説と物語は、そこで、グーテンベルク銀河の鎖から、印刷技術の鎖から、解放される”これを最も実践している舞台が「おたく文化」だと思うから (例えば、ゲームのシナリオが文学にも勝る可能性について少なからず信じている)、 安住ではないけれども常に変貌するエネルギーのある「おたく文化」から離れる事が出来ないんです。 停滞した文化には馴染めない(もちろん、外部からのアイデアや刺激を受けずに内に篭って停滞する「おたく文化」も望まない)。
(雑誌『文藝 94年春季号』掲載『ベオグラード書簡(「小説の始まりと終わり」)』 ミロラド・パヴィチ氏)
(小説後の時代 ポスト・ロマネスクの一提示『ベオグラード書簡』の先見性 1996年12月)
(1/14 23:15)
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