「遊牧民の歴史は成立するか」についてちょっと反応してみる
(REVさんとこでの記載、 ちょっとだけ帰ってきた過下郎日記さんでの記載)
※手元にある『ハザール 謎の帝国』では契丹がかつて属した突厥についての様々な方からの記述が記されてます。
(中国・唐)
三蔵法師の旅行記にて西突厥帝国の統葉護(トウヤブグ)可汗(カガン)との出会いの記述
(ビザンツ帝国の記録 及びエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』)
カフカスのトビリシ(現グルジアの首都)をビザンツ帝国のヘラクレイオス帝が包囲した際にジーベルという首長が率いる「東方のトルコ人」が合流し皇帝と会見したと記録されてます。
(アルメニアのモーゼ・カガンカトヴァツィの記録)
ジーベルについてJeb Khagan(イェブ・ハーガーン)と記述
また、西突厥帝国崩壊に伴い自立したハザールというカフカス北部から南ロシアに至る国に付いては
◆コルドバ王国の廷臣ハスダイ・イブン・シャプルトとハザールのヨセフ可汗による往復書簡(ケンブリッジ文書)
◆無名ハザール・ユダヤ教徒のハスダイ宛書簡(ケンブリッジ文書)
◆イブン・ファドラーンによる『ヴォルガ・ブルガール紀行』
◆アラブ・ハザール戦役に関するアラブ・ペルシャ文献
◆ビザンツ帝国との関わり(ユスティニアヌス2世のクリミア追放、レオン4世の母がハザールの可汗の娘である事など)
◆ハザール国が崩壊し出した辺りについての口述記録が成された『ロシア年代記』
◆ヘブライ語で書かれ突厥文字で検認印がなされたキエフ文書(ケンブリッジ文書の中から1962年発見)
「ケンブリッジ文書」
エジプト・カイロにあったシナゴーグのゲニーザー(文書秘蔵室)から発見された大量の手稿文書。 1893年にケンブリッジ大学図書館に運び込まれ調査が成されている(今も継続?)。
等など西方での記録が多いですが、対して中国側の記録は可薩(突厥の可薩部・可薩突厥等)と言う程度の扱いが断片的に語られるのみで、突厥の関連という扱い(独立国として見なしていないような)でしかないです (記録を総合すると活動範囲自体は広大だとうかがわれる)。
ハザールは北方でのルス(ロシア)族の侵入の他、カフカス地方の支配を巡りアラブ帝国と衝突しており、そういった関係からビザンツ帝国の接近を受けていたと言うように黒海沿岸国家間での関わりが深くあった。 しかし東方に対しては、 (ハザールがかつて属した)西突厥帝国崩壊による混乱などからいくつかの遊牧国家に分裂しハザールにとって脅威が比較的薄い為に関心が低くあった、という事です。
中国側も西方の地理を示す際の位置付けとしてのみ触れているように国家間での関係には無関心であった。
(ハザールがビザンツに接近した様に、ハザールの東隣国にあったとされるタバリスタンは747年に唐に朝貢しており、その唐は西域に遠征軍送るが751年のタラス河畔の戦いでアラブ軍に敗れている。中央アジアがイスラム教国の支配下に置かれることとなった事と唐が衰退した事でハザールと中国との関係はより疎遠となり、ホラズムの遠征などアラブ・イスラム国からの脅威が増す事となった)
そのように、その民族がどういった地政学的環境にあり西方と東方のどちらとの関わりを重視してきたか直面していたのかによって、記録がどちらに多く残されるのかが変わるのだと思われます。
また同様に東西の帝国にどの程度認識されているか (重要な国家・民族か、どこかの属国か、少数のグループか) によってもその民族についての記録される情報量は異なるでしょう。
契丹について西方の記録がどの程度かは調べないとわからないですが。
(キタイが中国に興した)遼が滅亡した後に皇族の耶律大石が中央アジアで興した西遼=カラ・キタイは、 Wikiでのまとめられた記述では東西カラ・ハン朝をホラズム・シャー朝を服従させ、当時アナトリア(現トルコ)まで進出していたセルジュクトルコを破るなど西方に関わりを持った事から、イスラム関係の歴史の他、ヨーロッパでのプレスター・ジョンの伝説という形でも伝えられるに至ってます。
ただ、年号とかを用いる事とか大石が中国への遠征を試みトルキスタン征服など行った様に東方・中国への関心があり、また中国にとっても重要であるトルキスタンを巡り対立するような情勢は重大と認識せざるを得なかったのではないかなと思われます。
しかしながら、モンゴル帝国がカラ・キタイを併合した事からそのままモンゴル帝国に対する脅威に移り変わってしまったのかもしれない。
※アルメニアの歴史家の記録が残っているらしい点では幾度も支配を受けた事のあるような小さな国家でも自らの記録を残し得る可能性を見せてますが、やはりその民族自らを記録する事に付いては民族が滅び歴史上断絶した場合は、ケンブリッジ文書発見のように書簡のような自ら語る記録が見つからない限り、特にその解読が困難だと思われます。そうなると『ハザール 謎の帝国』訳者解説での「ジーベル=統葉護可汗」とする考察のように、古今東西の様々な方面による文献や研究書、自らを語る碑文からその民族像を浮かび出すしか手がないでしょう。
大学時代に複写した資料の中にハザールの「二重王権制」を調べる為に集めた『突厥における君主観』『突厥の即位儀礼』『突厥の即位儀礼補論』など(原書がメモって無くて…) があるんですけど、その参考の多くに碑文の解読や欧米人による研究が取り入れられてました。
一応その原書では古代テュルク部族についての部分もある様ですが。
(→『古代トルコ民族史研究 II』という書物ですね)
(1/4 16:00→21:15追記 一応ハザール関係の本を2冊持ってますので)
| 固定リンク